勇敢なる有閑なる優な感じの自由刊行。続

三重県松阪市の端っこにある飯高町で農的生活を営む六人家族のお母ちゃんです。縁もゆかりもない移住をご機嫌に続けていけるのは、尽きないチャレンジ精神と、おおらかな地域のおかげです。地域に支えられる子供たちとの暮らしや、ここで発見した限りない素敵なことを、ちょっとずつ発信していきたいです。

母子って、どうあがいても似ています

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今週のお題「おかあさん」

 

 幼児を含めた子育て真っ最中の私にとっては、本当に毎日が母の日だと思っているのです。絵を描いては見せてくれるしレゴや積み木で作っても見せてくれるし、花を摘んでもすぐにくれるし、小学生は一生懸命勉強したプリントやテストをくれる。「上手に描けたね」「頑張ったね」「きれいやね」「ありがとう」と一言添えるだけで子供たちの顔は満足でいっぱいになって、それからちょっと照れくさそうになる。いろいろややこしいこともありながらも、ああ可愛いなぁと胸がキュンとならない日はないので、母の日に特別なことなんてしなくていいよ、と言っておいたのです。

 

そしたら今年は本当に何もなかった。

 

 その週が特に全体にバタバタしていたのもある。不調だったのもある。結構な雨が降ったのもあるのだろうけれど、準備の時間なんてちっともないのは知っていたけれど、本当に何もなくて、やっぱりちょっぴり寂しかった自分が居たのです。なんともアホらしいことを言ったものです。ちゃんと「期待してるよ」と言ってあげればよかった。

 

 そしてふと我が母のことを思い出したのです。私は自分が親になってから母との距離がつかみにくくなってしまって、なんだか上手に頼ることができないので、この数年はほとんど連絡もせず通過してしまっているのです。あっちも何も言ってこないからまぁいいかと済ませて、時に気にしながらも積極的に連絡することもなく後回しにしているのです。とはいえ実の母であり、受けている影響は多大だなとことあるごとに痛感しますが。

 

母の日に関してもそうでした。

 

私は小さな頃からわりとマメに母の日も誕生日もお祝いをしていたのですが、大きくなってからは健全な流れで母を祝う優先順位は低くなりました。大人になってからはもはや礼儀の一つとしてクリックポンで花を贈っていたのですが、ある年の秋だったか年末だったかとにかく母の日商戦のうんと前に母が言いました。「次はもう誰もくれないだろうからカーネーション自分で植えたのよ」と。その頃私は手のかかる幼児を抱えてまだ育児も慣れずにてんてこ舞い、母の言葉はスルスルっと耳を素通りしていき、フォローもできませんでした。でもその言葉を覚えていたがゆえに、その年から花を贈ることはなくなりました。なんか自分で用意するって言ってたなと、提示された言葉のみを思い出して、贈りづらくなってしまったのです。

 

今になってようやく、あの時もう少し私に余裕があれば、「大丈夫、ちゃんと贈るよ」とか「じゃあ別の花にするね」とか「花より欲しいものあったら言ってね」とかの優しい言葉がかけられたのかもしれません。母が望んでいた展開がどうあったのかはわかりませんが、あっさり止められてしまって、自分で用意した花で満足したのかな。多分そんなことなくてわりとショックを受けたのでしょう。

 

でもね、行間を汲んでもらおうとする癖はお互いの距離が近い時にやって欲しいのです、少なくとも。チャチャっと軌道修正できる時なら噛み合わない歯車と向き合うこともできるけど、距離ができてからの素直じゃない言葉はあまりいい流れになりませんよね。と言いながら私にも母直伝のわかりにくく伝えてしまう癖がしっかりあるもので、生涯気を付けねばならないなと思い至りました。

 

お母さん、また機会があれば、お互いわかりやすく話し合いたいものですね。そんな会話はお互いの好みではないことは百も承知だけど、残念なすれ違いを繰り返してきたのだから、反省を忘れないようにね。向き合うのはまだ怖いです。でもどれだけ疎遠になっていても、それ以上に多くが残されていることに感謝します。大事に育ててくれてありがとう。