勇敢なる有閑なる優な感じの自由刊行。続

三重県松阪市の端っこにある飯高町で農的生活を営む六人家族のお母ちゃんです。縁もゆかりもない移住をご機嫌に続けていけるのは、尽きないチャレンジ精神と、おおらかな地域のおかげです。地域に支えられる子供たちとの暮らしや、ここで発見した限りない素敵なことを、ちょっとずつ発信していきたいです。

特殊能力を活かせるか

言語を通しての子育て経験は伊達じゃないという話です。そしてその力をどう活かしていくのかという。

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10数年に渡って4児を育ててきておりますが、そういえばほんとに私は喃語というのは全く理解できませんでした。あれです、あの、赤ちゃんが「あー」「うー」とか「わぁわぁ」とかいうわずかな違いによって、表情とかも総合的に見て、赤ちゃんがお腹が空いたのかお尻が気持ち悪いのか眠たいのかがわかるという、あれです。育児上手な人は赤ちゃんをたくさん泣かせてしまってお互い消耗しなくても、すぐに理解して対応できるという、そのきっかけとなる喃語です。本当に全くわかりませんでした。ものすごく泣かせてお互い消耗しまくりでした。いつも赤ちゃんのそばにいて、距離が近いという母乳にしてても、変化に気付きやすいという布おむつにしてても、テレビなしにしてても、いいと言われることをなんでもかんでも行っていても、赤ちゃん語はちっともちっとも分かりませんでした。本気で早く喋れよ、と必死に願っていましたよ。無様な乳児期の母でした。

 

ところが、流石に40年間休まずに好んでせっせと言語力を磨いているだけあって、喋り出せばわかるのです。どれだけたどたどしてくても、どんなに突拍子がなくても、ぶっ飛ぶほどの言い間違いがあっても、まるで意思の疎通には至っていなくても、幼児が何を喋っているのかは、めちゃくちゃわかるのです。

 

ということに最近急に気付きました。

お客さんの子なり友達の子なりと会って一緒に過ごす機会があって、親も自分の子供が何言っているのかよくわからない時にも、私はかなりばっちりわかっていたのです。赤ちゃんではなくて2歳から6歳くらいの幼児語時期ですね。加えて小学生との意思疎通も相当レベルが高いことにも気付きました。言うことはあまり聞いてもらえないけど、彼ら彼女らの言っていることはわかるのです。そして掛け合いができるのです。

 

大体大人は言うことを聞いてもらおうという姿勢で子供との会話に臨むのですが、子供の方はそんな大人の意思は無視して自分の言いたいことを喋ります。限られた語彙と限られた経験の中から一所懸命喋ることに必死で、ほとんどの場合は大人の言いたいことを察してくれたりしません。だから大人は自分の言ったこととトンチンカンなことが返ってくると話が通じなくて、何言ってんのこの子、なんなのよ勝手してばかり、となることが結構あります。これは何も大人の理解力が低いわけではなくて、会話のレベルやコミュニテーションに求めているものに大きな差があるから、通じ合うことはなかなか難しいよという話です。どっちも聞いてないのが通常運転なのがかなりよくある普通の話かなと思ってます。余裕ない時は私もいつもそうなりますね。次にどう行動したらいいのかややってはいけないことを聞いてほしい大人と、自分の体験や今の気持ちを聞いてほしい子供と。

 

それが私が暇なときはコミュニケーションに求めるものが子供たちと近いのか、幼児たちの突拍子のない言葉が、多くの場合苦にならずスッと頭に入ってきます。「ああ、こういうことね」と理解して、合わせることができます。わかった上ではぐらかすこともよくあります。そうは言ってもお前さんよぉとあくまでその言語を通して話をします。その子の言語能力レベルが年齢の先入観なしにスッとわかると、適切な言葉選びもできて、会話は続いていきます。ということが最近改めてわかるようになりました。

 

会話と言っても大人と話をするときみたいにポンポン伝え合うのではなく、ゆっくり共感しながら理解を縮めていくとか、子供がマシンガントークするときは少し考える質問を挟みながら基本的には賞賛するとか、求めている気持ちを埋めるような在り方もだんだん身についてきました。赤ちゃんのわずかな表情の違いを読み取ることは全くできないけれど、言語を伴っての表情の変化などはとてもクリアに見えます。一所懸命話をしてくれることを、可愛いなぁと心に余裕を持ちながら、あまり言うことを聞かずに会話を続けます。少し嫌がられるくらいがちょうどいいスタンスです。幼児は精一杯の語彙を駆使してくるので、カタカナもたくさん混じっていますが、多言語ちゃんぽん(英語中国語などたくさん学びながらも結局ものになっているのはなくていい加減なまま混ざっている状態)の私にはへっちゃらです。わからないキャラクター名やストーリーなどはドヤ顔で教えてもらえるのでむしろへっちゃらです。どんだけ馬鹿にされてもちっとも気になりません。だから子供たちはどんどん無遠慮になってきます。

 

なぜたどたどしい子供の言葉がわかるかと言えば、やはりいままでの子供たちとの会話の総量が多いからでしょう。片手間でなく向き合ってきた時間が私の幼児語力を伸ばしてくれました。そういう点では保育士さんなどもかなり身につけておられるとは思いますが、大人が決めたスケジュールに従わずに奔放に過ごす子供の言葉を聞き取るのはなかなか難しそうです。私は自分自身がずっと奔放に生きてきているので、そんな幼児の気持ちなどはかなり理解しやすく、まあぶっちゃけ考えることのレベルが近いのでわかりやすいのですね。

 

さて、そんなかんじで私は理解不能な生き物だと思われることの多い幼児と、余裕を持って対等に話せるという、もしかしたら特殊能力があることがわかりました。おめでとう、私。ただこれ、何の役に立つのだろうと思うとあっという間に五里霧中です。いろいろな幼児と話すのはわりと楽しいから機会があれば気持ちよくお話ししようとは思いますが、保育や教育に関わる仕事でもないです。子供相手にずっとしゃべっていたいわけでもないです。幼稚園や学校スタッフに私が混ざっていたらなんらか役に立つだろうなとは思うものの、がっつり組織のスタッフをやるつもりもなく、厄介な人です。

 

それでもきっと活かせるこの能力。

亀成園で親御さんがワ―ケーションのワークする間、子供の話し相手としての仕事になるかしら。それとも幼児との話し方講座のニーズがあるかしら。まだもやもやしておりますが、どこかの誰かの役に立つ可能性のある力を、やっと見つけることができました。力が鈍らないように片っ端から知らない子供に話しかけてみなくては。