勇敢なる有閑なる優な感じの自由刊行。続

三重県松阪市の端っこにある飯高町で農的生活を営む六人家族のお母ちゃんです。縁もゆかりもない移住をご機嫌に続けていけるのは、尽きないチャレンジ精神と、おおらかな地域のおかげです。地域に支えられる子供たちとの暮らしや、ここで発見した限りない素敵なことを、ちょっとずつ発信していきたいです。

山の時間、人の時間

飯高町で江戸時代から林業を営まれるおうちの方に、山案内をしてもらうという超贅沢な機会の3度目は、静かに山での時間を味わうことがコンセプトでした。ついおしゃべりし過ぎてしまう主張派アラフォー女子たちへのけん制というだけでなく、子どもたちに対しても山案内はいつもそんな時間を設けるそうですよ。私もこう見えて実は静かな時間が大好きなので、喜んで口をつぐみました。

ビジョンのある山と100年先も共に居よう

飯高で有名なウォーキングコースのすぐ近くですが、一般人は普段、踏み入れられない場所です。預かっている山として元々管理されていた場所や、途中から管理することになった場所、植林後20年だったり60年だったり80年だったり、同じ樹種の同じビジョンでも時間が違う場所などを案内してもらい、光の入り方や間伐の役割などを現場で学びました。水が流れる豊かな山でも管理されているところといろいろと事情がありながら管理行き届かないところでは、雰囲気がまるで違います。ということを改めて感じる素敵な発見でした。

 

ちょうどつい最近、亀成園の裏山も間伐してもらったばかりです。元々はこのうちも林業家さんのうちでした。より山に近いところにも腕のいい林業家さんがおり、立派に育っていた山です。でも手入れをする人がいなくなって久しく、なんだか暗い森になっていました。素人がおいそれと手入れできるものでもないのでどうしようかと考えあぐねていたら、間伐のみなら補助金が出て作業をしてもらえるということで飯南森林組合に夏から申し込んでいました。ちょうど先日、急に車が何台も来て、どんどん切ってくれて、あっという間に明るい森になりました。

足の下には切った木がゴロゴロと。当分燃やすものには困らなさそうだなという豊かな気持ちと共に、せっかくの材木をもっと活かしたい気持ちでウズウズします。

資源があっても価値がわからなければ活かし用もありません。森で育った木が誰の手によってどこに運ばれ、どんな加工を遂げて誰の役に立つのか。そんな基本的なこともそういえば知らないまま過ごしています。杉や檜の用途や使われ方、間伐するときの木の選び方や森の育て方など、たくさんのことを学んで実感してきたつもりで、まだまだ自分ができることは何にもないなと気付くとちょっと泣きそうになります。

それでも、明るくて生き物の多い豊かな森のそばで暮らしていきたいし、美しく強い森を未来に残していきたいのです。樹のエネルギーをありがたく受け止めて、できるだけ丁寧に暮らしに活かすことこそが、持続可能な未来ってやつだと、改めて気付いているのです。樹に支えられた暮らしを伝えていきたい。

 

今回の山案内で一番熱く伝えてもらったことは、今私が触れることができる木を植えた人の姿や気配を感じること、山に居る時でなくても山のことを想像して過ごすことができるつながりを、山はいつでも待っていてくれるということです。ちょっとわかりにくいかな。

コケ萌えという喜びもあります

目の前のこの切株は、10年前の間伐作業のときに、ある人が休息用にと残しておいてくれたものなのだとか。そう聞くとその人の姿が浮かび上がってきませんか? 座って休憩してお弁当を食べていた人の姿や、ヒラヒラと止まった蝶の姿まで見えてくる気がしませんか? そして今私が写真を撮ったり、切り株に座ってココアを飲んだりすると(ココアごちそうさまでした)、その姿もまたこの山に残っていきます。山の記憶は重層的です。道がなくなったり木が変わったりときには地形が変わったりということもありますが、ビジョンを持って管理されている山は、急激に変わることなく淡々と時を刻んでいきます。

木の歴史は年輪に刻まれ、風化せずに生き続けてくれていると、過去も未来もその場所でつながっていく。なんだかそれって、大きなものに包まれている安心感があります。

下から見上げてまっすぐな木が良質なんですって

米作りに文字通り命を捧げている方の重みたっぷりの言葉で

「自分が田んぼでその年にどうしてきたか、稲を見ればわかる」と伝えてもらったことがあります。

どうすればいい稲ができますか?どこを変えたらいいですか?と教えを乞う人たちに対して、「答えは稲が知っている」とのメッセージはぐさりと刺さる言葉でした。なにせ田んぼは毎年のことで、天候や土の状態もあれど、わりと結果が見えやすいですね。

さて林業でも、天災や土地の富力の差もありながら、木を見ればやはり育てた人が見えるのでしょうか。「ああ、この山のこの木はいいなぁ、素晴らしいなぁ」と、植えて数年では感じることはできません。はっきりとビジョンを持って育てた山の完成した姿を見れるのに20年から30年、50年、100年先までかかることもザラにあるのです。

そう思うと、植林された立派な木を見ると、植えた人や手入れをした人の自信に溢れた顔が見えてくるようです。そしてもし自分が木を植えるなら、未来の人にいい顔してほしいなぁという気持ちが自然と湧いてきます。

 

そしてまた、山で時を過ごすのは人と木ばかりではありません。

はげ山でない豊かな山では虫も鳥も獣も、草も花もそれぞれの適地で生きています。

ここに大きな生き物がいたという動かぬ証拠!

強運にもこの日に鹿の落ち角を拾うこともできました。通常春先に落ちているのを発見することが多いのですが、ふと目を落としたところに風景に溶け込んだ落し物がありました。先っぽがかじられているのはタヌキの仕業かな。私の通った同じ場所に、確かに立派な鹿が居て、頭をふって角を落とした一瞬があったのです。

 

今この時もまた、山にはたくさんの生き物がいて、悠々と育つ生命があります。冬は樹も虫も亀たちも息をひそめてじっとしていますが、あの山に、あの場所で、命がある。いつだってそう思えることは、ちっぽけな私にとってどんなに豊かな感覚でしょう。

そんな感覚を見事に表現した大好きな絵本を思い出しました。サハリンで子供時代を過ごされた神沢利子さんのイメージにある森と動物は厳しくも豊かです。

www.fukuinkan.co.jp

大きな感覚を持ち続け、目の前の植物や木のひとつひとつに向き合っていく。進んでいく道がどんどん見えてくる静かな時間でした。多分かなり、静かにしていたはずですよ。

来月もう一度、仕上げの山案内があります。ごちゃごちゃ考えていることがすっきりして、子ども心でめいっぱい楽しめたらいいなと描いています。