今週のお題「大人だから」
16歳の娘を持つ身としては、彼女が成人式を迎えるのは18歳のときなのか、20歳のつどいとして集まるのか(現行)、気になるようになりました。
私自身は18歳まで生まれ育った町を19歳の年に引っ越して、成人式は帰省して懐かしい友達にいっぱい会えて楽しかったから、高校卒業後2年というタイミングがいいなぁと思う派ですが、子どもたちにはその時にふさわしいタイミングで何かあるのでしょう。
さてそんな成人式が盛り上がる連休の初日に、教育関係の映画を観て、トークイベントの観覧をしてきました。
主催者や関係者に知り合いの、教育をずっと考えて頑張っている人たちがいて、「三重県で多様な学びを!」と市町を越えて活動をしている人たちが結集してのイベントだったし、子どもたちの小学校で親子山村留学の活動やコミュニティスクールのコーディネーターをしている私も関係のある話かなと思い、前向きに行ってきたのです。

大人であるからには子どもの教育は無関係ではありませんしね。
観た映画は「夢見る小学校 完結編」と監督からのメッセージ動画で
その後、トークイベントがありました。
学校編と給食編がありましたが、私が見たのは学校編だけです。
映画で撮られていた子どもたち、自由な環境で自分らしく育ってきた子供たちが、中学校を卒業して自分の道を歩み出すところはとてもよかったです。
学校での活動のほとんどが自主性に任されている教育スタイルなので、何を学ぶかや話し合いを自分たちで問を立ててコミュニケーションをとって自分の力にしていくので、探求がハマればめちゃくちゃ深い学びになるようです。長い時間をかけての探求なのでそれぞれにハマることが見つかるようで、興味深いです。
舞台となった学校は「きのくに子どもの村学園」の南アルプス子どもの村小中学校が主で、他の学校もチラホラと。
何年にも渡っての撮影の集大成として、同じ子供らの成長が切り取られていました。
いろんな子供がその子らしさを持ったまま、それぞれ好きなことに目を輝かせ、自分を信じて大好きでいることを認めてもらって育っていくという教育の場は、文句なく素晴らしい環境です。それを実現するには子供たちそれぞれに寄り添う力のある伴走者が不可欠で、学校教育の場でそんな存在に支えられて成長できる子供は幸せだなぁと深く納得します。
とはいえ、映画での大人の発言は子どもに寄り添ったものばかりではありませんでした。なんというか、既存の批判がチラチラしていたのが、仕方ないかもしれないけれどちょっと残念でした。結局比較してマイノリティを認めよ!みたいな主張になってしまうのかなと。マイナス発信になってしまうのはなんとももったいないなと。
それがトークイベントでうまくくるまれて、いい話を聞けたぞ!になればよかったのですが。
かなり、既存の学校教育への批判ばかりでしたね。そしてそこに拍手をする観覧者。
うーん、こうなってしまっては、せっかくの灯火が育たない。
私が聞きたいのはこんなストーリーでした。
いろんな教育現場を経験して、悔しい想いもいろいろしながら、できることを模索していって、ビジョンを持って精一杯のことをしたら、こんな素晴らしい子供の姿に出会えた!それを知ってほしい!
でも実際語られたのは、
おかしいよね、学校教育。おかしいよね、文科省。夢見る学校にしなきゃダメだよね。
またそれをご自身は定年まで学校現場や文科省で勤め上げられて、今もその名で仕事をする人がおっしゃるのだから、余計になんだかなぁと後味が悪かったのです。
自分の職場や共に働いてきた人の仕事を悪く言う人が子どものためを語るなんて。
そんな主張を支持することが子どものためとしてこれからの活動になっていくなんて。
うーん、子ども連れて来なくてよかった。
もちろん興味深い話もありましたし、現役で三重県の学校に勤めている方や森の幼稚園を主催されて何十年になる園長先生の取り組みなんかはもっと聞きたかったです。
批判を封じての登壇であればどんなによかったかと惜しくてたまりません。
けれど観覧者が求めているのは前向きな話よりも憂さ晴らしなのかもしれなくて、そんな大人が作ってきたシステムの中で子供たちが苦しんでいるのかと思うとやり切れない気にまでなってしまいました。
子どもに希望を持って生きていってほしいなら、大人が先にそうした姿を自分に課して、背中を見せたらいいのです。
伴走するときはじっと信じて寄り添うだけをひたすらしたらいいのです。
子どもの可能性をつぶすような言葉をかける現代の教育に問題がある!と主張する人が、同じように大きな声で社会の批判をするから堂々巡りになっているのだと思います。鏡の法則ってありますよね。
期待せずに自分で行動するしかないよね、やっぱり。という大きな学びになったので、参加したことは意味がありました。行動するときは反対運動はしないという自分の姿勢は貫いていきたいので、後味について大声をあげることもしません。
自分の身の回りから、希望と感謝を持って取り組めることが変わらずあるのですからね。
私は自分自身の教育環境について不満を持ったことはありません。
小学校4年生の担任の先生とは相性が悪くて嫌なこといっぱいありましたが、それを乗り越えてこその小学校での学びだったと思います。
中学校時代は反抗期真っただ中で部活顧問の先生にも随分ご迷惑をかけてしまったと反省しております。体育が悲惨でモテなかったことも暗い影を落としてはおりますが、あの鬱々とした思いがあったからこそ、深夜ラジオと重低音の効いたロックにハマれたので、マイナスどころかプラスですよね。
高校だって受験戦争の暗黒の泥沼という側面もありましたが、総じて楽しい日々でしたし、その後の人生で二度と使わない知識であっても必死で脳のどこかに放り込んで乗り切ったという出来事は、人生のトレーニングでありました。
子どもの教育に関しては、幼児期は自然素材たっぷりのシュタイナー教育と読み聞かせや知育と奮闘しまくりましたが、小学校以降は公立の学校でのびのび過ごしてもらっています。豊かな自然環境の中でどの先生も本当に一人一人をよく見てもらう中、責任もって社会を学んでいる子どもの姿があり、現状に感謝でいっぱいです。
というわけで、平成も令和も学校を取り巻く問題はそれこそいろいろありますが、問題は学校にあるというよりむしろ家庭だろうし、他責思考の大人が多いと子どもは苦しいなぁと慮らずにはいられません。
いじめが発覚するや否や、加害者とその保護者に治療を受けさせるのが当たり前になればいいなぁとは思います。
勉強でつまずく子が多くて授業どころじゃないのなら、年齢別でなく履修できているかどうかを基準に柔軟に再教育できる仕組みがあってもいいのかなぁとも思います。何を必須にして履修クリアの基準をどうするかなど課題は満載ですが、学校が生活よりも前向きな学びの場であればいいです。
学校に求めることを増やすばかりの主張をするよりも、教育者には教育をさせてほしいという主張は数か月前にも書いておりました。
厚生労働省の役割であるようなことを教育現場に求める声って何なのだろう。
もちろん子どもに近い立場である先生方は厳しい指導というよりは、寄り添って見守って成長を信じるスタンスでというのはありますが、求めることを取り違えてはいないかと、主張する大人が疑わしくなることがけっこうあります。
大人だから、子どもよりもいろんなことを自分で選ぶことができます。
疑問があるならそれを文句という形にするより、前向きでいられるように自分で何かを変えればいいのです。
子どもとの向き合い方、教育に求めるもの、住む場所、つきあう人々
なんだって選べるのだから、行動する大人であればいい。
そのうち大人になる我が子たちへ望むことはそんなにありません。
それぞれが私が描くよりもっと自分に合った面白い道へ進んでいくと思うから、私が想定できる枠組みに閉じ込めることがないように自戒しております。
でも願わくば、ずっと元気でいてほしい。いつだって会いたい。可愛がり続けたいです。60年先もラブラブビームを出していたいな。
