体験格差ってあるの?
最近耳にすることが多くなった子供時代の「体験格差」という考え方があります。主に親の力差によって、多くの体験ができる子とそうでない子に大きな差がついてしまうということ。
時間とお金にゆとりがあって、情報にも聡い親なら子どもに与えられることはどんどん多くなるけれど、必死で生活しているとそんな余裕はなく、与えられる経験の少ない子になってしまうという啓蒙ですね。
だから親はできるだけ子どもに良い体験をさせてあげなければいけませんよ、という流れになります。そこに乗っかるのが「体験足りてるかしら」と心配する親となり、我々のような自然体験提供施設にはビジネスチャーンス!というわけにもなるのです。
確かに亀成園に来れば、鶏にふれあうとか、自然農の畑に入るとか、虫がいてその話ができるとか、川沿いの散歩ができるとか、薪ストーブを使えるとか、たくさんの体験があります。
まだあまり体験格差というチャンスをものにしようの観点で動いておらず、もっと儲け話につながるチャンスは多分流れていっておりますがね。だって子供の体験って親の欲目からだけではいけない気がするのですから。

体験格差の罠
確かに子どもの頃の体験って身体に刻み込まれるものです。
冷たい水で泳いだとかふかふかの落ち葉に飛び込んだとか、夢中でトンボ取りの腕を磨いたとか、ヘトヘトになった時のココアとか、そんな体験にまつわる記憶は紛れもなく豊かだなぁと思います。
それにはやはりずっと屋内で安全だけを確保されて過ごすより、ちょっとした冒険要素とか近場でもチャレンジするとか生き物や自然素材との関わりが必要になってくるので、親がそういう環境を用意できることは子どもにはなによりのプレゼントになります。
ただしそれは体験プログラムに申し込むとか豪華な旅行に連れて行かなければいけないということではなく、風火水土を取り入れた遊びを工夫してみるということで十分な場合がほとんどではないでしょうか。
体験は日常の延長でいい
近頃は規制が強くなるばかりで外遊びをさせるのも一筋縄ではいかないようですが、森に出かけるとか川原で遊ぶとか(ただしこれは危険管理必須)、土と虫に触れるとか、日常の延長での自然体験があり、子供自身に好奇心があれば、豪華な旅を上回る体験による種は芽吹いてきます。
それと同時に思うのが、体験したいけどできなかったことに対して、後から自分で取り戻すことにも価値があるのではないかということです。
体験がないことで育つもの
私自身の話になりますが、幼少期から身近な自然や生き物が好きで、キャンプやハイキングにめちゃくちゃ憧れていたのですが、アウトドア家庭ではなかったもので、庭で遊ぶくらいの機会しかありませんでした。海水浴と遊園地は連れて行ってもらっていたのですけどね。
だからなのか、自分で行動できるようになると(小学校高学年から中学生以降)、近くの山や川に出かけるようになったし、学生時代にアウトドアの部活に没頭していたのは、自分が渇望していたことを満たす意味が大きかったのです。
親に与えられる体験よりも、自分で楽しさを探して味わうということをしていました。
野外で火おこしをするとか、重たい荷物を担いで移動するとか、地図を読み解いて迷子から脱出するとか、役立たずな自分が嫌になりながらも、めちゃくちゃ楽しい経験をしてきました。
もちろんボーイスカウト出身や登山部上りの人はもっとスムーズに活動ができ、高みを目指していくこともできるのです。野生の勘や体力が強い人がどれほど羨ましいことか。
それでも私が真っ新な心で体当たりした経験は、自分の意思で実行したからこそ、価値があるのだと信じています。
体験豊富の罠
前もどこかで書いた気もしますが、一つすごく印象的な友達の話があります。
大学時代に私は自力でスペイン旅行に行きたくて、ダリの作品を生で見たくて、バイト代を溜めて情報を集めて、春休みに3週間の一人旅を計画していました。ワクワクしかなくて。
熱を込めて準備をしていると友達の一人が
「ヨーロッパの美術館とか一通り行ってるから、特に興味ないんだよね」と呟きました。
帰国子女である彼女は、中学生の頃に父親の仕事の関係でイギリスだったかに暮らしており、その数年の間にヨーロッパを一通り巡っていたのだとか。
〇〇も〇〇も行った。それは私には目玉が飛び出るほど羨ましい体験だったのですが、彼女にはなんということもなく、先に続く情熱は抜け落ちていました。もちろん人並み以上の教養は身についており、親御さんに与えてもらった数々の体験が彼女の知性と品性の土台になってきたことは間違いなさそうですが、未知の世界に対しての渇望や情熱がない中で、自由たっぷりの学生時代を送っていくのかと思うとなんだか勿体無い気すらしました。
私はまだこれからやりたいことがいっぱいで嬉しいなと強く感じたことを覚えています。
申し分のない体験をさせてもらうことが子供の先のワクワクにつながるわけではありません。
体験格差に惑わされなくていい
子供に豊かな体験をさせてやりたい。
そう思う親の心と投資は子供の自尊心を育てます。
〇〇させてもらった。〇〇に連れて行ってもらった。〇〇買ってもらった。
桶から溢れるほどの自尊心は人の心を強く保ってくれる、必要なものです。
けれどむしろ、体験による目に見えない力を育てるには、本人からの湧き上がる情熱が大事なのではないでしょうか。
川の飛び込みをやってみたい。怖いけど、足震えるけど、勇気出して、翔んだ!
焼きマシュマロをしてみたい。火が近くてびっくりするけど、思いきって。旨!
藁を積み重ねたところにダイブしたい。うわぁ、チクチクするけど、いい匂いだなぁ。
それとまた、与えられなかったからこそ、消えない炎もあります。
犬を飼いたい。犬を飼いたい。飼えないって言われてきたから、大人になって絶対飼おう。
馬に乗りたい。乗馬クラブに通いたい。ダメなら、馬術部のある学校に。頑張ろう。
外でご飯を食べてみたい。キャンプをしたい。焚き火もしたい。ソロでもしたい。
私に出せる例なので偏りが多いですが、きっと大人になって趣味に夢中になる人の半数は、やりたくでもできなかったことを取り戻しているからこそ楽しいというケースではないでしょうか。
欠乏からのエネルギーを軽視しない
「人は10代の頃に満たされなかったものに生涯執着する」と聞いたことがあります。
執着はそのままにせずに手放した方がいいことも多いですが、しがみつく馬鹿力の方向性が間違っていなければ、過去の渇望が未来を生きる力になるのならば、欠乏大いに結構です。
何もかも与えられて、少しの欠乏もない人って、なんだか物語がないのです。
人を突き動かすのは内部からのエネルギーです。
欲望、渇望、切望
興味関心、好奇心、センスオブワンダー
それは身近なところから出発して、うまくいけば火がついて膨れ上がっていきます。
与えられるのではなく、自分の内から熾って消えない火種となる場合があります。
そんなところに、その人ならではの物語があるのでしょう。

上の子は17歳、一番下ももうすぐ10歳とずいぶん成長してきてくれたことにより
親の役割を少し俯瞰して捉えられるようになりました。
親子一緒にできるだけたくさんの自然体験をしたい。貧しくとも共に苦労を乗り越えることに価値があると信じて疑わなかった10年を経て、もちろん身についたものもあれば、抜け落ちたものもあります。
そして一緒に体験できる時間がもう少なくなってきたことを認めなくちゃいけません。
順々にしっかり送り出していくために、先立つものはなんでしょう。
親子のそれぞれ
この10年、私は自分の渇望を埋める意味でも全力で楽しんできました。
そこに居てくれた子どもたちには感謝だけでいいのです。
相当たくましいやろなぁとの見立てもありながら、それぞれの興味関心の種がどこにあって、何が芽吹いているのかは子どもたち自身の物語です。
私の物語は今の延長でとてもいい感じに描いていけそうで、ワクワクが高まりますが
共有できてもできなくてもどっちでもいいのです。
やだ、しんみりしちゃう。
けれど大丈夫、後悔もなければ燃え尽きてもいないから。
体験格差についての疑問から、自分の物語を振り返ってみました。
結論として、どのタイミングでもいい。小さくていい。体験は人それぞれってことに落ち着きましたよ。
子どもの体験不足を心配される親御さんたち。まずは自分の興味の種を育てませんか。
その過程で子どもの表情や変化を捉えてみませんか。
よくわからないなら、山に囲まれて頭を空っぽにしてみるところからです。
それは多分、間違いない。
