勇敢なる有閑なる優な感じの自由刊行。続

三重県松阪市の端っこにある飯高町で農的生活を営む六人家族のお母ちゃんです。縁もゆかりもない移住をご機嫌に続けていけるのは、尽きないチャレンジ精神と、おおらかな地域のおかげです。地域に支えられる子供たちとの暮らしや、ここで発見した限りない素敵なことを、ちょっとずつ発信していきたいです。

ズケズケと刺さる歌を聴いて

松阪市内で今年引っ越した友達が家の外で餅つきやら焼き芋やらの感謝祭を行うというので、肉とみかんを携えて遊びに行きました。香肌峡を抜けて少しの場所にまたご縁があったことが楽しいです。石垣左右から迫る細い坂道をするすると登っていったところが素敵な会場でした。砦風の立地に息子が喜びました。

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大きなお鍋がシンボルの感謝祭テーマは「大地の恵みと人のつながり」

身体に優しくて美味しいものを持ち寄って、ご縁に感謝しながらの「いただきます」を求めて近場やちょっと遠くからも何人もが集まりました。


田舎で畑を持って人と支えあいながらつつましく暮らしていると、土の有難さと人の有難さが身に沁みます。ちょうどよい栄養の土と種、ちょうどよい距離間の人の巡りがあれば、もう存分に豊かに生きていけるなと実感するのです。私はまだまだ欲望と野心でいっぱいの若々しさにあえぐことを楽しんでいますが、大地の恵みと人のつながりへの感謝を保ち続けているならば、たぎる欲望と野心はいつでも降ろせる気がしています。先を見据えるために野心は是非とも必要なのですが、豊かに生きるのに必要なのは素直な感謝であることは間違いないです。とりわけ先の見えにくいこの世の中、どれだけ足元を見つめて笑って感謝できるかで次に見えるものが変わってくるのだと思います。

 

誰が集まるかもわからず参加して、知った顔があれば嬉しくてほころんで(私は戌年なのでか尻尾ふりふりです)、知らない方ともなめらかに話が弾み、餅つきをして薪割をしてカレー食べてトークライブを享受しました。ライブをしてくれたのはギターとパーカッションの親子ユニット、「RAMO」さんです。以前大台町のストーブ屋さんで聴いたことがあり、この辺りでもメディアでも有名な方なので知ってはいたのですが、トーク交じりは初めてで、距離も近く一緒の時間を過ごさせてもらえた感が強く、ズサッと心に刺さりました。今は楽器の店は松阪市の宇気郷地区にあるので少し前のですが、「RAMO」さんを紹介した記事がありました。

www.bunka.pref.mie.lg.jp

 

フリートークの中で、自分たちから希望を受け取る人もいれば、絶望を誘発されてしまう人もいると語っておられました。報道の仕方によってはキラキラした部分だけを切り取ったサクセスストーリーを作り上げられてしまい、追い込まれる人もいるのだと。前に出て立ち向かっていき続けているからこそ見なければいけなかった闇がなんと多いのでしょう。望まなかったけれど背負わなければいけなくなった重石を背負いながらも願いはシンプルであることが伝わりました。親への応援歌です。勇気をもってそのままの子供を愛することのかけがえのなさを謳ってくれました。

 

子供を持つ親の多くは子供が先に死ぬのが最大の親不孝だと思っています。ああ、もっと子供たちと一緒に居たかったと悔やみながら、でも子供と一緒に過ごせた人生に感謝して生涯を全うできたらいいなと思っています。けれどいわゆる障害を持つ子の親の場合は子を残して死ねないと責任を負っていることがかなりあります。社会も親が責任を持つことを圧していることがかなりあります。障害に限らず病気や道を踏み外した場合なんかもですが、社会のカチカチの枠組みに入りにくい子がいる場合、親への重圧は半端なくなってしまっているのがいつからなのか容赦ない現実になっています。立派に育っているような子でも「この子は十分立派で親の私なぞいなくともよい」とはなかなか思えないのが親心なのに、「私がなんとなしなくちゃいけないのに私ではもうなんともできない」と追い詰められていくのが止むを得ない道筋なのでしょうか。

 

私にはまだまだちっとも経験も実績も想像力も足りないし、肩代わりする力もありません。わが子に寄り添うのでさえ自信がなくなることしばしばで、「大丈夫、なんとかなる」と自分に言い聞かせ暗示をかけてなんとか船をこいでいます。そんな身なので大きなことは言えないのですが、どんな子もしぶとくしたたかにしなやかに生きることを抱擁する社会がいいなと描きます。私が暮らすところは人間よりも圧倒的に野生動物の多いところです。人間のルールにちっとも従わずに農家やドライバーを悩ませる彼らは、時に失敗もしながらもしぶとくしれっと生きています。人間ほど生きにくそうにはしていないなといつも獣が走り去っていく様子を見ては微笑ましく思うのです。もちろん全ての命が寿命いっぱいを全うできるわけでなく、循環の中で淘汰されていく厳しさがあるのですが、少なくとも精神的に追い詰められてお先真っ暗な親というのは考えにくいです。たとえ罠にかかったとしても子はしれっと逃げるでしょう。

 

 どんな子であっても子供が小さいうちは親の負担は大きいです。単純にお世話をしなければ生活がぐちゃぐちゃになるので、時間をかけて寄り添ってあげなくちゃいけません。けれどある程度育ってくると、親子は補完しあうようになります。かつて世話をし補助して導いた分、足りないところを補ってくれます。ような気がします。「おうた(背負った)子に教えられ」がリアルに実感できると、人生捨てたもんじゃないと思えるのです。

 

親子ソングを聴きながら、初めての場所を探検する子供たちを見守っていると、様々な思いが交錯していきました。後から尾を引いて考察しました。いろいろな巡り合わせがあって、今年も完成間近です。ほとんど三重県にしかいなかったけど、だからこそ繋がれた縁が満載で、実りの大きさを振り返っている時期です。


最近触れた言葉で気に懸かった一節があるので残しておきます。「誰にだって才能が与えられている。その才能を使うのは自分のためではなくて他人のためだ」と。惜しみなく歌と経験を露にしてくれる親子に触発されて、才能を与え合うことができるでしょうか。