勇敢なる有閑なる優な感じの自由刊行。続

三重県松阪市の端っこにある飯高町で農的生活を営む六人家族のお母ちゃんです。縁もゆかりもない移住をご機嫌に続けていけるのは、尽きないチャレンジ精神と、おおらかな地域のおかげです。地域に支えられる子供たちとの暮らしや、ここで発見した限りない素敵なことを、ちょっとずつ発信していきたいです。

穏やかに向き合う、命の話

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亀成園では「にわとりふれあい体験」や「パーマカルチャーの畑体験」といったいかにもハードルの低い明るい農家体験の他に、「鶏解体体験」「鹿の脚解体体験」「罠猟師体験」というなんだか重たい体験も通年のメニューとしてご用意してあります。卵と野菜だけでなく、肉が手に入るからこその自給暮らしであり、廃鶏は絞める必要があるし、罠にかかった鹿は必ず脚がついていて、脚一本なら冷凍保存しておけるので、3日以上前にご予約いただいたご要望のお客様に体験してもらえるようになっています。

 

体験メニュー| 亀成園(ゲストハウス・農家体験)

 

鶏にふれあうためにだけ、畑体験をするためにだけわざわざ亀成園を訪れる方はそう多くないです。体験される方のほとんどは宿泊ゲストで、子供の生き物体験や食育の一貫として選んでくださいます。卵を買うために訪れて下さったお客様が鶏小屋を軽く見学されることや松阪市のイベントとして子供向けににわとり抱っこ企画のときは、ふれあいがメインで好評でしたが、それも三重県内、もっと近郊の場合です。県外からそのために来られたお客様はまだいらっしゃいません。

 

けれど鶏解体体験のために、県外からわざわざお越し下さる方はいらっしゃるのです。

とにかく目の前の一羽を絞める体験をしてみたい、というよりも自分の人生の中でそうする必要があるのではと感じられ、亀成園を見つけて縁をつかんでくださる方がいることは、本当に有難いことです。

 

フィリピンで暮らしていた頃は、ナチュラル志向で知られた農園ではわりと気軽に鶏解体の機会はあったし、アジア圏や南半球ではハードル高くなく行われていることと思います。北半球の肉食文明圏では現在はと殺や解体は日常ではないでしょうが、昔は村総出で行うようなことでした。日本でも昭和初期くらいまでは、家畜をつぶすことはわりとどこででも行われていたようです。でも急速に農村社会を脱して経済成長してきた現在日本では、ふれあえる養鶏場や解体機会は稀です。なかなか公開で行っているところもありません。これから増えてくる可能性はもちろんありますが、現時点ではまだ。

 

だからそんな状況の中にあって、なにをきっかけなのかは様々ながら、湧き上がる気持ちで「命を決断する」ことを本気で思い立った人が、亀成園を訪れてくれるのはお互いにとって幸運なことなのでしょう。

 

さて、先日「自給暮らし」をキーワードに鶏解体体験をしていただく機会がありました。田舎で暮らして畑で野菜は作っていて、もう少し踏み込んだ自給がしたい。もう少し自給率を上げていきたい。そうなると考えられる一つが鶏を飼って、卵をいただくことだが、飼育してペットにしない以上、最後まで覚悟を決めておく必要があると考えておられました。つまり絞めるところまで覚悟しておかないと、飼うことはできないと。

 

多くの方が興味本位で動物を飼育し、成長したら持て余して山に放して自然に帰した気になる中、なんと立派なシナリオでしょう。ヒヨコを飼って、大きくなった雄鶏を引き取ってほしい、殺さず飼ってほしいとおっしゃる方がたまにいます。命を奪わないでと言いながら自分は責任を持たないでのうのうとしようとする姿には、私はマジでカチンときます。輸入動物を山に捨てて自然に帰した自己満足で、実は生態系を壊す人と同じくらい、想像力の欠如に腹が立ちます。他人を否定しないと決めているのですが、時々逆鱗がありますの。

 

比べるまでもありませんが、そうではなくて亀成園を訪れてくれた方は、自分のところにくる命を最後まで描いておられました。体験を通して決意を深めてから次に進もうとされる方もいるのですね。皆がそうである必要もなく、なんとなく飼ってから後で悩むのでもいいのですが、世の中捨てたもんじゃないなというストーリーはいつだって明るいです。

 

突然無関係のバナーを入れてみました。ちょっと気になっているサービス。

 

さて、そんなこんなで鶏解体体験を一緒にしました。

3日前から絶食させておいた鶏は、もうかれこれ一か月以上卵を産まなくなっていた雌鶏なので、ちょうど潮時だったのです。それでも抱っこで登場した彼女は毛艶もいいし、柔らかくて温かい命でした。長い事亀成園で暮らして、卵を提供してきてくれた雌鶏に対して、私も園主も無情ではありません。同じく命を絶つにしても、侵入者の獣より、狩りの獲物より、もちろん家の中の厄介な虫たちより、余程精神的ダメージは大きいです。それでももう絞めると決めていると、力を込めて抱っこして、手を合わせて、作業に入ることができます。

 

サクサクっと解体しようとしている私たちに一旦ストップをかけてくれたのはお客さまでした。本当に、もう、絞めるんですか、という感じで。そうでした。心の準備には時間がかかります。大きな決断に気持ちがグラグラします。そのために訪れたとはいえ、確かにそうあっさりとはできるものでもありません。私たちも無理強いはしないので、そばで見ていてもらってもよいのですが、それなら前に進めない。頑張ってやってみなければというところまで、静かに待たせてもらいました。

 

もしかしてそれでもあっさりだったかもしれません。命を経つのにはそんなに時間はかからなくて、その後の作業をこなすことに時間がかかるので、進めてしまいがちだったかもしれません。丁寧に丁寧に向き合ってもらった鶏はいい最期だなと思いながらも、淡々と作業を行うのです。

 

深刻になり過ぎず、無駄口を入れてのスタイルは、人によっては受け入れ難いのかもしれません。けれど生き物の多い里山で暮らし、命の巡りを日々感じていると、一つ一つにそこまで心乱れず静かに受け止めることができます。もちろん精神的ダメージはあって、一日にこなせる数は少ないですが、病気で失ったり外敵にやられてしまったりよりは余程穏やかでいられます。本人たち(鶏)がどう感じているかは知りたくない気もしますが、ありがたく頂く命とじっくり、でもわりとあっさり向き合うことは、年々必要なことになってきました。

 

ほろりと涙を流しながらも感謝いっぱいに淡々とこなす解体体験。今年はまだ15羽以上絞めなくてはいけません。できるけれど、正直すり減ります。永く飼ってきたものは特に。けれどこなすことは決まっているので、体験を共有できたら有難いなと思います。目を背けられるかもしれませんが、もしかしたら人々が取り戻す必要があるのかもしれない機会を、さらりと提供できる役割があることを、ちょっと誇らしく思っています。

 

 今回のではなく園主自己紹介に使っている古い写真です。

命と共にある暮らし。最後まで責任を持つことを決めている自給暮らし。明るい里山での小さな暮らしです。

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