勇敢なる有閑なる優な感じの自由刊行。続

三重県松阪市の端っこにある飯高町で農的生活を営む六人家族のお母ちゃんです。縁もゆかりもない移住をご機嫌に続けていけるのは、尽きないチャレンジ精神と、おおらかな地域のおかげです。地域に支えられる子供たちとの暮らしや、ここで発見した限りない素敵なことを、ちょっとずつ発信していきたいです。

長引く我慢の中のモラル

夏休みとなり、人を迎える機会が増えました。

ゲストハウスを訪れてくれる人たちも、小学校に興味を持って来てくれる人たちも、香肌峡に興味を持つきっかけがあって訪れてくれる人たちはみなとても大切です。

ご縁があるって嬉しいことです。

 

人を迎えることが嬉しいという基本的なスタンスは変わらないながらも

その中で、なんだかなぁともやんとするのが、今更ですが、けっこうほんと今更ですが、

マスク着用のモラルだったりします。ゲストハウスのお客様は私たちが気を付けていればむしろ自由にしてほしいと思っていますが、学校に来てくれる人にはね。

 

以下、一体なんやねんというわかりにくい論法かもしれません、二転三転の想いはありながらも、流石にちょっとなぁということについて記しておきます。

 

私は基本的にマスクは肯定していません。

息苦しいし、落とし物やゴミになりやすいし、外ではまぁ要らないと思っています。距離を取れる環境におりますしね。使い捨てマスクをポイ捨てする人の多いことよ。

一年前にパート仕事を辞めた理由の一つに、一日中マスクをしているのが苦しかったということもあります。それだけではなくてやりたいことで生きていく覚悟を決めたことの方がもちろん大きな理由ですが、一日中息苦しい中で生きていくことを選ばなくてもいいとは思いました。今の仕事状況では人と対面するときは付けますが、家で作業するときも多いので、息苦しさは守られています。

 

感染防止効果についてはよくわかりません。唾を飛ばすのでなければそんなに大きな効果もなぁ、とも思います。鞄に押し込んでいたマスクを慌てて付けるのは衛生的ではないなとも思います。

 

なれど場所に応じたモラルは守っているのです。自分としては苦しいけれど、マスクを付けていることで目の前の人が安心することをわかっているので、入店時や公共の場で付けない理由はありません。たまにある会議やセミナーでも面倒くさいなぁ、空いている会場なのになぁと思いながらも、素直にいつも付けていますよ。どうしても忘れてしまったときは口を隠して申し出たり、手ぬぐいで巻いたりして、卑屈になります。

 

もっとマスクが苦手な友達もいます。基本的には付けない。もしかすると持ってもいない。どうしても必要のある時はフェイスシールドにする。マスクが常識なんておかしいぞと強い主張をすることもあります。ただし彼らが居るのは自分や仲間たちの場所がほとんどであって、明らかな公共の場ではありません。線引きはするけれど、敵対はしないというスタンスだと思っています。

 

子供のために立ち上がった母たちの姿もあります。子供が外でも当たり前にマスクを着用しているのは夏場は特に危険だし、友達の顔もわからない環境でこれ以上過ごさせることにやばさを感じて、頑張っている姿です。勝手に外すのではなく、議論をして理解を深めていくというスタンスなら立派だと思います。

 

ノーマスク学校宣言なんてのも言われるようになりましたし、今後徐々にマスクの着用マナーは緩んでいくのでしょう。それはとても嬉しいです。みんなよく頑張ってきたなと思います。私よりもっと苦しい人もたくさんいたでしょう。耐えてしんどい思いをたくさんされたでしょう。当たり前に顔が見られる近未来はもうすぐです。

 

けれど、それはまだもう少し先の話です。もうすぐそうなるだろうけれど、現状はまだ、建物の中で話をするときはマスクの着用が推奨されています。ノーマスクの未来に追い付いていない地域です。どうしても着用が無理な場合は、事前に申し出るとか周囲が配慮をするなどをして、強制はしません。

 

とはいえ、公共の場である学校で、しかも初めて訪れる場所で、マスク推奨を事前に知らされているのにも関わらず、マスクもフェイスガードもつけないことを事前に申し出ることもなしに当たり前に認めてもらおうとする人って、一体何なのでしょうかね。

 

訪れる必要があったわけでもないのに、頼まれたわけでもないのに自ら申し込んで来て、しかも最近急増したことで、感染症対策の話なども事前に伝えられていたのです。惜しくも理解力が足りなかったのか、都合のいいように解釈してしまったのか、建物で密接しているのにも関わらず、子供たちにマスクを促す様子もありませんでした。

 

ちょっと、びっくりでした。

 

「ポリシーを曲げない!」ことを周囲に示すことが快感なのか。

確固たる自分の居場所で主張される分にはなんの違和感もありませんが、わざわざ初めて訪れた公立の学校で主張しなくてもなぁと思うのですがこれ如何に。

いつも通われいる場所では既にノーマスクは当たり前なのかもしれません。それなら居心地のいいその場所にいればいいのに、わざわざマスク推奨のところを訪れたのにも関わらず、「推奨って強制力はないですよね」とおっしゃいました。

確かにそうなんですが、わざわざ他人の配慮につっかかる親の姿を子供は間近で見ています。いつものことなのかもしれませんが、心地よく迎えられてなさそうな親の姿は子供にどんな影響を与えてしまうのだろう。

けっこうそれが気になってしまいました。

子供たちもわぁわぁ騒いでいたわけではなくほとんど声もしなかった気がしますが、それは気遣いだったのでしょうか。ノーマスク状態を勝ち取ることで、逆に人前で会話もできない子にさせてしまうことが、求めていたことだったのでしょうか。

 

問いただす気もありませんし、話が噛み合わない人に絡む必要もないので、事前に注意をさせてもらった以外の会話もありませんでしたが、そこまで主張されたのに表情が固かったままのことは気にはなっています。すんなり受け入れてもらえなかった拒否反応もあるのでしょうが、もやっとした思いもあるのでしょうか。

叶うならば、お互い居心地よく過ごしたかったものです。求めているのが子供にとっての豊かな環境であるならば、親は先にいろいろなことを、多少不自由があっても受け入れることで、求めていたものにつながっていきます。ずっと主張をしてばかりで受け入れることがないと、何も受け取ることはできないし、受け入れられることもありません。けれど求めているものが自分を認めてほしい、ということであれば、どうしたらいいのか私にはよくわかりませんね。自分で認めるしかないのではというだけです。

 

自由がほしくて、受け入れてほしくて、現状を抜け出したくて、逃げ込むように田舎を求める人っておられます。逃げるのも有効な一手なのでその選択も正しいのですが、受け入れてほしい場合はまず受け入れるのが先であるのが揺るぎない事実です。自由がほしければ他を認める。現状を変えたいのなら自分が変わる。田舎で叶うこともあれば都会の方がいいことも知る。迷子の人はまず、心身ゆるむ機会を自分で作ることがどうも有効そうですね。

思いのほか長くなってしまいました。基本的には応援しているのです。でも、気持ちいいやり取りができないとムッとしてしまう未熟な自分もまた事実。その分、気持ちいい人に出会えた時の喜びを大事にしたいものです。