身体は丈夫なほうやったのですが、40過ぎて過信もできなくなってきました。
ヤバい、熱が出る。悪寒がする。頭が痛い。節々が痛い。重力がキツい。
虚弱とまではいかないものの、相当具合の悪い人になってしまうことをちょこちょこ経験しています。ピエーん、なんなんだ一体。嘆きながらも身体の声なので受け止めなければ仕方ないです。
幸いにして私の暮らし方は出かけたり人に会うのは最小限で、基本的に自営業と自由な時間なのです。通勤の仕事に穴をあけてめちゃくちゃ落ち込むなんてことにはなりません。外せない用事の時は不思議と気合で熱も下がるので、世間的にはいつも通りです。都合つくときだけやたらに具合が悪くなって休まざるをえません。なので社会にはそんなに迷惑をかけてもいないはずですが(家の周りの草刈りがいつまでも進んでませんね、ということくらいかしら)、家族に対してだけ「役立たずごめんー!」とどうにも申し訳ない気持ちになります。いつもニコニコと食を支えていたお母ちゃんが寝込んでしまったらそりゃ不便ですね。
それでも彼らが私なしでも生きていけるように力は付けてきた甲斐がありました。
お父ちゃんも子供たちもこういうとき、文句もなく当たり前に頑張ってくれます。1日2日ならなんとかしてくれることがだんだんわかってきました。
やたらに苦労かけたくはないのですが、「お母ちゃんを助ける!」となると火事場の馬鹿力を発揮するという事もあるので、もしかして私の不調はピンチのチャンスなのかもしれません。
自分自身がどうにも役立たずのクズ(ダメ出しする時って勢いつきますよね)に感じられる時、自己肯定感や自己有用感ってどうなるのでしょう。普段そこそこ頑張っているならば、失墜の一途かもしれません。ゴミ虫ですみませんと自虐的になるのかも。
でもね、私普段からそんなに役に立つ人でもないのです。そりゃぁ寝込んでない時の方ができることは多いですし家族への申し訳なさも感じずに済みます。最小限のことをご機嫌にこなせているのですからね。それでも調子悪いと価値がなくて元気なら価値が高いかといえばそうでもないなと改めて気付きました。有用度、そこそこ違うけど別人ってほどでもありません。あれ、元々役立たずなのか。
それを認めるのは容易ではないですが、認めれなくはありません。そして認めたところで私の価値は変わりません。
役に立たなくても私には他では補えない役割があるし、それは多少の役立たず上増しでも根幹は揺らぎません。しっかり休んで心身整えて、もっと広い視野でいろんなことを考察できることは私にとってはがむしゃらに動き回るより大事なことです。そして私の価値はおそらく視野の広さと語彙力なので、寝込む経験もまた後に活きてくるはずです。
うん、役立たずでええねん。
そんな時でも自分を認めたらええねん。
無理矢理でも自己肯定のトレーニングやねん。
転んでもタダでは起き上がるものですか。
図太く生きようと決めてからこっち、トレーニングの積み上げバッチリです。どんな日だってチャンスにできる。いつも気づきのヒントでいっぱいです。
この私でええねん。
自己暗示の行末、どう展開していきますやら。