勇敢なる有閑なる優な感じの自由刊行。続

三重県松阪市の端っこにある飯高町で農的生活を営む六人家族のお母ちゃんです。縁もゆかりもない移住をご機嫌に続けていけるのは、尽きないチャレンジ精神と、おおらかな地域のおかげです。地域に支えられる子供たちとの暮らしや、ここで発見した限りない素敵なことを、ちょっとずつ発信していきたいです。

ストーリーテーラーという野望もあるよ

先月のとある週、私の公式スケジュール(自由時間除いた予定)は

学校で読み聞かせ、保育園で演奏、短歌サークルと何日も立て続く時がありました。まるで歩くカルチャーセンター、この歳でどこまで有閑な文化人なのか呆れちまいますが、亀成園の集客やらもしながら楽しく文化的な日常が、生きる道なのです。

 

その中の「読み聞かせ」時間に、素話の挑戦をしたというのは、ほんの短い時間のささいな挑戦ですが、私にとってはまた大きな一歩だったのでした。

いつも読んできた昔話など、声に出して何度も繰り返して覚えてしまって、本を見ずにそのまま語って聴いてもらうのが素話(すばなし)=ストーリーテリングです。

伝承文化ではいつも語り部と呼ばれる人がいて、世界各地の昔話などは語り部の口から口頭で伝わってきましたし、アイヌ文化でもずっと語りを大事にしてきていて、近年になるまで書き残されたものはありませんでした。人が、子供たちが聴く話は、人の口から直接届くように伝えるのが昔話で、本を読むよりそのまま伝わるといわれてきました。読んでしまうと不意に残酷なシーンが出てくる世界各地(日本も含みます)の昔話なのですが、語りで聴くとスッと受け入れられて変な誤解もないということも言われています。この辺りどこで仕入れた知識なのかあやふやになっておりますが、語ることを肯定する意見をいくつか集めてみたことがあるのですね。

それが正しいかどうかなんてわかりませんが、語りを肯定する後押しがあるおかげで私は野望を持つことができます。

メルヘンは語る方がよい。

いやでもそうはいっても、読めば済むのにわざわざ覚えるのは大変だぞぉとなかなか踏み出せずにいました。

 

3回読んでもそう簡単には覚えられません。

なめらかに雰囲気整えながらテキストを見ての語り聞かせで十分ではとの甘えもあります。読めばそれで届けられるお話をわざわざ覚えて話すって、どんな頑張りやねん、需要はあるのか。

言い訳を並べればキリがないですね。ボランティアでやることでそこまでって。

でも自己の願いを見つめれば、ただやってみたいのです。

自分の中にどれだけ豊かなお話を入れられるか、それを直接子供たちに伝えていい機会があるってことがどれだけ有難いのか。

子供たちが詩を暗唱して発表してくれるように、私もお話を覚えて聴いてほしい。ただその想いが大きく膨らんで膨らんで、えいやっと挑戦したのが先月真ん中くらいのことでした。

演目はこちらの民話をたくさん集めた本の中から、「かざじぞう」でした。年末の昔話でなんとか覚えられそうな短さだという条件がいろいろそろっていました。

いろいろと絵本も出ている「かさじぞう」のお話ですが、私には何度読んだかわからない↑『子どもに聞かせる日本の民話』バージョンが一番しっくりです。

なんとなく当たり前に知っている気になりがちな昔話なのですが、改めて向き合ってみるとこんなストーリーだったのかとの発見も多いです。

話の大筋としては、雪の降る大晦日に編み笠を売りに町へ行くもひとつも売れず、

帰り道に六体のお地蔵さまに笠をかぶせてあげて、一つだけは自分の手ぬぐいを巻いて、

手ぶらで帰ってきたじいさまに、ばあさまは「ええことしなさった」と優しく迎え入れて何もないまま年越しをすると、

地蔵さまたちに命が吹き込まれてどっさりご馳走をそりに引いて持って来てくれるという物語です。

このお地蔵さまらは実はじいさまばあさまの水子たちであるという話があったり、幸せに暮らすじいさまばあさまを妬むとなりのじいさま(昔話でお馴染みキャラ)が出てきたりとバージョン違いもありますが、

じいさまばあさまが貧しくともお互いを信頼して思いやり、じいさまが何をしても「ええことした」というのが話のポイントなようです。

グリム童話でもどうも抜けた旦那様を信じ抜いて幸せをつかむおかみさんの話もありますし、お話の素朴な筋はなかなかどうして共通していることが多いようです。

 

どんな話でも、本で、またデジタルで映像で、情報としては取り放題の時代です。

ひとつの話を時間をかけて覚えた人から直接語ってもらうなんていうことは、なかなかない体験になっています。もしかして身内に昔話を語るおじいおばあがいて、盆暮れ正月には必ず素話をしてもらっているという子もいないわけではないでしょうが、会ったことはありません。

落語の寄席は文化として残っていますが、これも足を運ぶ人はどれだけいるのか。

 

いつでも無料でもコンテンツが消費できる時代にあって、脳みそ刺激して昔話を覚えて語る機会を待つなんてこと、とんでもなくトンチンカンであるとは思います。

それでも頑張って覚えて素話やってみて

悪くない感触だったのですよ。

素朴な話が子供たちにスッと入っていく様子をテキストを追うことに力を取られずにそのまま感じることができたのです。それって、なんか、村のおばぁな気分です。

自分の近いところにいる子供たちに直接お話を伝えられる語り部の立ち位置は、ノスタルジー過ぎたとしてもなんかいいなぁっていう感覚が私を満たしています。

おじいの語り部イラストはACさんから

どれだけ機会があるのかわからないし、どうつながっていくかもわからないけど、

昔話と落語と、ずっと口承芸として伝えられる人になることをあきらめないでいたいです。

会話だとお互いなんだか緊張してしまうこともありますし、途中で何を話しているのかわからなくなったり、あんなこと言わなきゃよかったと後悔することもままあります。

もちろん雑談での発見や喜びや幸福の価値も高いのですが

「安心してお話に包まれる」ということを、もし私が近しい人々に施すことができるのなら、引き受けて磨く価値はアリアリなのではと無駄に自分を奮い立てているのが今です。

いろんな野望があるけれど、共通していることがあります。

温かく面白く未来を照らすってことがね。

声の出し方コンプレックスは半端ないし、記憶力もおそまつさんだし、語り部が必要とされるかなんてちっとも自信があるわけでもありません。

でも、磨いていたいのです。自分の可能性とお話とのつながりを。

そして出会う機会のある子供たちや大人にだって、安心してお話を受け取ってほしいです。説教でなく正論でなく、一見無関係なようなお話から、生きていくのに必要なちょっとした灯りを受け取ってほしいななんて、勝手なこと思ってます。

 

皆様に披露する機会はあるのでしょうか。

ほんの些細な、それでもハラハラする挑戦の行く先がどうなるのか

無理矢理道を付けることもなくなんとなく楽しみにしていたいです。