友達とランチをする機会なぞ滅多にないのですが、たまにお誘いあると嬉しいものです。お店でのランチは食欲旺盛な私には少量過ぎることがほとんどで、その後飢餓状態になって苦しむゆえ、ほんとたまにで良いのですが、ハマる機会を大事にしています。
みんなどうしてあの量で足りるんでしょう。考えても仕方ないけど、胃袋大きめな自分は好きなので、気に病んだりしませんよ。
だいぶ先日になりますが、気の合う人々と楽しい会がありました。3人ほど来そうな人を知っていたくらいで誰が来て何人かも知らずに参加しました。大きな信頼のおかげか、8人どなたも心地良い、ちゃんと参加できてよかったなぁっていう集まりになりました。己の強運を感じますね。みなさんありがとう。
それぞれの子供の年代も赤子から成人まで幅広く、わりと知っている子もよく知らない子も、ゆるく認め合えるのがいいです。近過ぎるママ友より幅の広い話題になるし、直近の卒業式でも盛り上がれるし、母としての在り方もいろいろあることを楽しめるのがいいです。
気の合う人たちですが、スケジュールが合うのは滅多にないことです。私のように暇だけど出不精というのもおれば、予定がパンパンタイプも混在しています。忙しいライフスタイルも充実しているし、空白を大事にする側の主張もあって、それが対立せずにお互いを認め合える雰囲気が心地良かったです。主張はすれども同調圧力はかけない関係性って自立してて良いですね。
私もそう!同じ!わかるぅ。
という共感で安心し合うことも生きていく上で大切なのです。流行りにノルのもおそろいにするのも生存戦略としてありだし、ある程度分類できて助かることも多いことは間違いないです。
その一方、
絶対ないわぁ、よーやらんわぁ、なんなんそれ。
と言いながらもそこには侮蔑ではなくてリスペクトと愛のある人付合いもありますね。
そして私は共感することもされることも少ないので、意味わからんしぃとお互い引きながらも惹かれ合う関係性が一番好きです。
性格は似てるけど好みが違うという感じかな。
世界観は重なってるけど磨いているところはそれぞれとか。
面白がれるし補い合えるし尊敬し合える。そんな友達がいることを実感できると、安心して自分らしくいることができますね。
そんな気持ちをしばらく膨らませていたタイミングで、ものすごく久しぶりに姉と会う機会がありました。東京でバリキャリの姉と三重のど田舎で有閑に暮らす妹とはまた両極端なものです。
子供時代を過ごした大阪の町を思い出しながら話していたのですが、姉の記憶に残っているのは魚屋さんとお漬物屋さんと花屋さんだとか。私の記憶にあるのは本屋さんとレコード屋さんとペットショップで、全く共通点はなかったです。姉って友達よりもっと距離が遠い人やったのですね。
それでも心地良く過ごせるし、お互いの人生をまるごと受け止めて愛することができます。
私はとにかく有閑な自由人で、ムダに生きているだけのことを今では誇らしく思えるようになったのですが、引け目がある時代もありました。
〇〇する能力がないことに対して、ダメなやつ診断を下しがちなこともあったのです。
稼いでない、カタカタ用語使えない、確定申告もできない。
そして家にいるのに効率よく家事することもできないし、片付けられないし、介護もできそうにありません。「カ」の付くものに弱過ぎる。
あれ、私の能力ってなに?となると沼に入ってしまいそうなものですが、わりと居場所はあったから無事でいられました。意外と社会での役割もあるので堂々と生きていけておりますよ。
生物多様性を重視するのは、自分も含めて人の多様性をとことん受け入れ、認め、面白がりたいからです。マグロもアンコウもタツノオトシゴもクラゲも、それぞれもっと深掘りして面白がりを決してやめないことが私のルールですね。
生き方は違うけれど尊重し合える人の関係があることをじわんと噛み締める。大人になってもそんな関係性が築けることはどうにも幸せってやつじゃないかなと不思議な感じを体験しています。