勇敢なる有閑なる優な感じの自由刊行。続

三重県松阪市の端っこにある飯高町で農的生活を営む六人家族のお母ちゃんです。縁もゆかりもない移住をご機嫌に続けていけるのは、尽きないチャレンジ精神と、おおらかな地域のおかげです。地域に支えられる子供たちとの暮らしや、ここで発見した限りない素敵なことを、ちょっとずつ発信していきたいです。

54対46

20代で大阪の真ん中で働いていた頃、本物の大阪言葉を知りたくて、田辺聖子さんの本をよく読んでいました。そこに出てくる人は様々といえど現代を見据えたように、「都会で好きな仕事を持っている綺麗な現役女性」が多かったので、仕事をしている頃は素直に面白かったです。でもその枠から外れてわりと早めにお母ちゃんの道を邁進した私は、いつしか働く都会女性の世界からは距離を置いてしまいました。なにせ文中に「人間には三種類ある。男と女とおかん」なんて書かれていたので素直に読めなくなりました。今では「そうか、そうか。それほどまでにおかんは偉大やな」とものすごくポジティブに捉えることができるのですが、おかん歴数年では社会の仲間外れのように、はみ出しっ子にされたような寂しさがあって、読み続けることができませんでした。けれどその寂しさを味わっていたことは人生の財産だと思うし、数多くの田辺聖子を読む中でたとえ仲間外れにされようとも娘のためにこれは覚えておこうと思っていたことがあったのです。

 曰く、中学校に入る前に百人一首をわけもわからず覚えておくと、古典の勉強は楽、といったことです。古典の現代語訳も多い、雰囲気のある言葉作り名手のお言葉。がむしゃらに百人一首を暗記したところですんなり皆が古典に親しめるということもないでしょうが、わけもわからず、というのが多分大事です。意識的にノルマとして暗記したものより「門前の小僧習わぬ経を読む」の状態で覚えてしまったことのほうが、後々強いものです。それに私自身が小さなころ祖母とよく百人一首で遊んでもらっていて、わけもわからずながら楽しかった。その楽しかった感じが古典の学習の時にふと思い出されて、言葉がつながることがあったのです。僧侶の情けない恋心になんの理解もなくとも、読まれた札の言葉は耳に残っていて、そんなに古典に苦労しなかったなという実感がありました。与えられたものの大きさがわかっていたので、母になったら娘が中学校に入る前に楽しく百人一首で遊ばねばというのが何年も温めていたままにしていた母としてのノルマでした。そしてもう入学目前です。なんともギリギリの教育ママ思考であることよ。

 そんなわけで2021年が明けるとノルマ解消を求めて子供たちを遊びに誘ったのです。「かるたするぞ」

f:id:kamenarien:20210202114705j:plain

 もともと昭和っぽい遊び方をする我が子たちはかるたも好きです。ちゃぶ台で手を痛めることはザラにあります。飯高るた(地方のご当地かるた)は子供の方が強くてどうにも敵いません。百人一首は一般のかるたと違って、上の句を読んで下の句を取る遊びで、絵札でも文字一つ大きく書いてあるわけでもなく、目がちかちかする札場です。なかなか高いハードルではありますが、私も幼いころ遊んでいたので多分大丈夫。案ずるより産むがやすしの大雑把さでともかくやってみました。

 

勝負に参加するのは母の私と上の娘二人に時々お父さん。下の子たちは遠巻きに聞いています。私が読んだり娘が読んだりして、何度かやっていると結構とれるようになってきた上の娘。元々学校で習ったりドラえもんの本で覚えていた歌もあり、よく取れる自分の札が増えていきました。取り出すと早いです。

1月中に街中の本屋さんに寄る嬉しい機会があったので、学習コーナーを覗いてみましたが、百人一首の本は今やたらと出ているのですね。べたべたの恋愛漫画のようになっていて渋い風景の歌はほぼ無視というのもある中、ドラえもんのはまんべんなくカバーされていて安心できます。覚えられるかと言われれば、やっぱり実践に勝るものはないのですが、恋愛だけに焦点を当てるのはどうもなと思うのですよ(勝ってこなかった負け惜しみが多く含まれていることは否定しませぬが)。

  もともと記憶力がよく、静かに勝気な娘です。連日私に勝負を挑み、習得が目覚ましく、予想以上に熱を帯びてきました。元々私のレベルはそれなりに覚えている20枚を死守し、うろ覚えの20枚をお手付きしながらも頑張り、あとは行き当たりばったりという程度。中学校入学まで勝ちを維持することはできないだろうなとは思っておりましたが、王座から引きずり降ろされるのは予想外に早かったのです。

 決戦の日。タイマン勝負をすることになりました。その日は夕食も娘たちにカレーを作ってもらい、無駄に百人一首の関連本を読みふけることまで許されていたというのに。故安野光雅さんが百首の上の句を自分で付けた片っぽだけの百人一首。時代が交錯していて面白かったけれど、無駄に言葉をいれてしまった気もします。

片想い百人一首 (ちくま文庫)

片想い百人一首 (ちくま文庫)

  • 作者:安野 光雅
  • 発売日: 2007/12/10
  • メディア: 文庫
 

 

 娘はといえば、テキストは公文カードの解説書。

 正当な勉強スタイルで真っ向勝負に挑んでくる姿勢からして、勝敗は見えていたのかもしれません。

百人一首カード 上巻―幼児から

百人一首カード 上巻―幼児から

 

 

 そして結果は54枚VS46枚でした。1月の間何度となく遊んでいて、一度同数になったことはあったもののずっと優勢を貫いてきたのに、初の負け戦となりました。納得するけれど悔しい。悔しいけれど嬉しい。嬉しいけれどもう少し粘りたかった。粘ってみたけれどやっぱり納得。もうそんな親心がぐるぐるしております。

 

 娘はといえば札を丁寧に数えて、私がお手付きで失敗してゆずった札を2枚抜いて、「うん、52枚やわ」と静かに過半数を受け止めておりました。そして「次はいつやる?」とあくまで己を高めていく模様。「勝って兜の緒を締めよ」とは聞いたことがあるものの、実行する人を見た記憶はありませんでした。そりゃ勝てんわ。

 

 子供の踏み台になるのが親の本望、と清々しいことを言ってみるものの、実際に踏み台になってみるわかりやすい経験はなかなかできるものではありません。ちょうど子供のやる気をうまく引き出せて乗せられたとき。しばらくリードして競ってスッと引導を渡せたとき。ひと月もかからず踏み台になるとは拍子抜けの情けない話ですが、こんなにわかりやすい踏み台経験があると、今後何を超えられてもフッと笑って押し上げてあげられるのかもしれません。あまり多くない得意分野を次々超えられるのはそんなに気分のいいものでもありませんが、超えてこそ子供、と願ってきたのは他ならぬ自分なのです。「私の屍を越えてゆけ」。すぐにベルばらの名台詞が思い浮かぶあたり、そんなに落ち込んじゃおりません。

 

なんとも熱く楽しいおうち時間を一緒に過ごせて、有難きかな。