勇敢なる有閑なる優な感じの自由刊行。続

三重県松阪市の端っこにある飯高町で農的生活を営む六人家族のお母ちゃんです。縁もゆかりもない移住をご機嫌に続けていけるのは、尽きないチャレンジ精神と、おおらかな地域のおかげです。地域に支えられる子供たちとの暮らしや、ここで発見した限りない素敵なことを、ちょっとずつ発信していきたいです。

わたしはオオカミ、になっていいのだ

 いちばん上の娘が生まれたとき、あわよくば子供にはコンプレックスを持たずに育ってほしいと願いました。目指すは文武両道。外遊びもおうち遊びも楽しめて、明るく前向きな素直な子。図々しい願いだとはわかっていましたが、私自身がコンプレックスの塊で卑屈に生きてきてしまったので、子供はそうでなくてもいい、堂々育ってほしいと願ったのは別段不思議な流れでもありません。まっすぐ子供の幸せを想ったら、コンプレックスはなくてもいいやんと思ったのです。赤子の可能性を狭めることだけはすまいと自分への戒めも込めて、様々な機会を与えて、色々な方向を刺激して育ててきました。否ほぼ勝手に育ってきました。

 ありがたいことに、現在娘は13歳まで育ち、図々しい母の願いは大部分叶っているのです。やはり願い事の力は強いです。素直な彼女は比類なき読書家で、多方面によくお手伝いもし、たくましくて心身健康、さらにマイペースな明るい子です。いつも頭が上がりません。

 

 ただし例外もありまして、女子力と武道以外の運動能力は置き去りになりました。

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 あちゃあ、そうきたか。どうしても抗えない遺伝があったようです。

 女子力に関しては、まあ必要あれば追々身につくかもしれませんし、なくても楽しく生きていくには困らないと私は思っているので(自分を認めるためにも)、構わないのです。女子力高ければ幸せに生きてるわけでもなく、ふっきれたほうが幸せな場合も多いので、いいのです。髪の毛がボサボサでも態度がぶっきらぼうでもいいのです。

 ただ、スポーツが足を引っ張ると、青春が曇るかもとの心配はあります。私が一番苦労したのがそこで、そうならないために文武両道を掲げていたのに、武道は好きでもボールは入っていなかったようです。願い事には気を付けて。

 

 

以下どうでもいいですが、私の青春の曇り一部

☆バレーボールの集中攻撃。相手チームのしめたという空気。味方チームの残念感。

☆テニス教室でのコーチのやれやれ感。月謝へのうしろめたさ。

ドッジボールでただ避けていたら最後の一人になって、皆の期待が高まる中一発アウトの残念感。

☆キックベース。地味に外野を守っていたら、見事抜けていって、残念感。

☆ラケットを使う授業。ゴメンしか言っておらず、盛り上がる周りとのギャップ。

☆マラソン大会。一緒に走ろうねと言ってくれた子が待ちきれなくなって申し訳なさそうにぶっちぎっていくときの、無力感。

 

そう、運動能力が低いということは、マジで可哀そうなことなのです。残念感ばかりの青春時代。それにしては暗くならず生きてきましたが、もう少しスポーツができたらよかったのは本音です。自己肯定感を育てきれなかったのはこの残念感が強く、何度悲しみの涙を流しながら読書を続けたことか。運動はしない。

改めて羅列すると半分泣けてきましたが、けれどこの辛さがあったから、子供にはそんな思いはしたくないと頑張ってきたのです。沢山一緒に外を走り回って遊んびました。ボール投げもいちおう心掛けました。木登りの様子は眩しいほどでした。見ていただけですが。風のように走るのはともかく、体幹はつきました。薪割りもできます。ただやはり、ラケットとボールには弱かったのです。

 

本人があまり気にしておらず、お茶目に構えているのでそれも個性でいいのですが、バドミントンの授業が始まり、ちょっと縮んでしまいました。「みんな上手やのに、わたしんとこ穴やねん」なんて聞くといたたまれません。わかる、それ。わかるよ、娘よ。あからさまに穴やなんて、直系やん。可哀そうに。だから少しでも何かの足しになればと思う親心で、図書館に向かいました。ここで図書館に答えを求めるあたり、もう流れは見えてますね。

 

向かった先はいままで足を踏み入れることもないスポーツの本コーナーでした。図書館の日本十進分類法でいくと、「78」です。本当に縁のないコーナーでした。気後れしましたが、なんとかバドミントンやラケットスポーツの本を探して開いてみると

・大切なのは負けるものかという気持ち

・さらに高みを目指すトレーニング方法

・これで完璧。○○の方法

 

撤退。やはり私には縁のない場所でした。ごめんなさい、踏み入れて。

 

と思ってその場を立ち去ろうとしたとき目に飛び込んできた一冊の本がありました。

このコーナーだったから出会った運命の一冊。

 

女子サッカー選手が引退してから書いた、女性啓発本です。

内容的には精神論なので、スポーツコーナーにあるのは不思議なのですが、おかげさまでこのコーナーに行くもおめおめ撤退せずに済むことができました。


曰く、赤ずきんは道を外れるな、従順であれ、好奇心を抱くな、さもなければひどい目に遭うぞというメッセージ。だけど人生の輝きはいつも道を外れ、好奇心に突き進んでいったときにこそあった。わたしは、そして女性は赤ずきんではない。オオカミなのだ。

という力強いメッセージでした。


オオカミはリーダーシップがあり、群れを大事にし、パワーがある。私たちは皆そうして生きていいのだ。屈することはない。どんな差別にも格差にもどんな古い社会のルールにも。


オオカミを名乗れるようなパワーもスピード感も鋭さもない私ですが、心はいつも叫んでいるのです。声を挙げたいことが沢山あり、守りたいもので溢れています。もう古い社会の巻き添えを食らって我慢したくはない時だったのです。


時代は確実に変わっています。動き続けています。ルールは誰かに決めてもらうのではなく、勇気を出して自分で作っていけばいいのです。そんな共感の波が広がっていること、遠く離れた全く立場も能力も違う人が、同じことを思って声を挙げていることが、とてもとても嬉しいです。ありがたいです。

 

強く賢く美しく。わたしはいつもオオカミでありたいです。オオカミは頂点ではありません。日本でも滅びてしまったし、イエローストーンでも滅びていました。けれどオオカミには確実にできることがあります。そして影響力は思いもよらないところまで届くことがあり、ただの暴君にはなりません。仲間を思う群れの動物であり、手柄を独り占めにはしません。世代交代も知っているし、引き際も心得ています。

万能ではないし、プライドに引きずられることもありますが、社会に屈して慰め合うよりは、一人でも多くオオカミを自覚したらいい。そうした先の社会を子供には残していきたいです。


鈍臭くても、カッコ悪くても、恥じなくていい。

滅びずにちゃっかり生き延びていきたい。

一皮自ら剥きました。